指揮者桐田正章によるエッセイです。

第13回定期演奏会より 1995.12.17
第14回定期演奏会より 1996.7.7
第15回定期演奏会より 1997.6.14
第16回定期演奏会より 1997.6.14
第17回定期演奏会より 1997.12.13
第18回定期演奏会より 1998.6.13
第19回定期演奏会より 1998.12.20
第20回定期演奏会より 1999.6.20
第21回定期演奏会より 1999.12.19
第22回定期演奏会より 2000.6.18
第23回定期演奏会より 2001.1.13
第24回定期演奏会より 2001.6.9
第25回定期演奏会より 2002.1.12
第26回定期演奏会より 2002.6.22
第27回定期演奏会より 2003.6.15
第28回定期演奏会より 2004.6.13
第29回定期演奏会より 2005.6.26
第30回定期演奏会より 2006.2.11




























































退 屈 な 人 へ                     第20回定期演奏会より 1999.6.20

 春日井ウインドオーケストラも20回目の定期演奏会を開催できることになった。これもひとえに皆様方のご支援のおかげであり,感謝の気持ちでいっぱいである。
 20回を節目に過去を振り返ってみた。
 当初は中部中学校をお借りし,夏には暑く冬に寒い練習会場で,音楽好きの若者を中心としたメンバーたちと集っていた。大型楽器や譜面台も借り物で,団所有の物など何もなかった。ただ,中学校を卒業したメンバーが久しぶりに友達と会い,格好のコミニュケーションの場となっていた。
 高校生が多くを占め,お金もなくテストや各学校の行事で,度々練習ができない。お金がなくて楽譜を購入することができないなど,すぐに多くの問題と直面することとなった。 当然の如く編成も不自然で,各楽器によって人数のバランスが著しく悪かった。当時私が柏原中学に勤務していた関係もあって,第一回目の定期演奏会から中学生の力を拝借した。それはウインドの歴史と共に続き,私が東部中学校へ転勤すれば東部中の,名電校へ変われば名電の生徒の助けを借りた。これは活動の一部として当たり前のこととなり,今日まで続いている。
 第1回目のコンサート開催にあたり最初の問題はステージ衣装だった。たまたま団員の母親に洋服屋の知り合いがいて,1着うん千円で紺のブレザーをやっとの思いでそろえることができた。ステージ衣装が決まって,みんなで良い音楽をしよう,と熱い思いは真剣だった。
 回を重ねるごとにクラシックの大曲を取りあげるようになり,これまでにドボルジャークの「新世界から」,ブラームスの「交響曲第1番」,ベルリオーズの「幻想交響曲」全曲演奏など,バンドでは通常取りあげないクラシックの名曲に毎回のように取り組んできた。
 うわさを聞いて市内はもとより県内,中には東京からわざわざ音楽好きの人が仲間として参加してくれるようになった。それは音楽的に質の高い演奏をしようと心がけている我々にとって大きな刺激となり,活動の原動力にもなった。
 そして,昨年はバンド界を大いに賑わしてしまった。初めてコンクールに出場したからだ。最近は学校バンドだけではなく,私たちのような一般のバンドもその殆どがコンクールに出場し,しのぎを削っている。
 我々は,これまでコンサートを活動の中心としてきたが,バンドのメンバーと居酒屋で一杯やっていた時,コンクール出場のことが話題に上った。それが去年の丁度この頃。
 ウインドを二分する,とまでいってはいささか大げさな気もするが,かなり議論した。結果として出場することになったが,これまでの演奏会と格別変わったことをしようとは思わなかった。ただ,通常のコンサートと違って,演奏時間が格段に少ない。コンサートは大体2時間だが,コンクールは課題曲を含めて,わずか12分。練習はこれまでと同じで,演奏時間が2時間から12分に短縮されるわけだから,特別なことをしなくても自ずと演奏レベルは高くなる。
 昨年6月の第18回の定期演奏会が終了した頃からコンクールに向けて,準備が始まった。出場する以上自分たちの力を発揮しよう,音楽的に質の高い演奏をしよう,と互いに声を掛け合った。
 メンバーには学生の頃コンクールを経験した者が多く,課題曲の「稲穂の波」と自由曲として取りあげた交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を何時どれくらいまでに仕上げることが必要か,ある程度把握できていた。ただ,このようなバンドであるから,それぞれに本務である活動がある。それを縫っての練習だ,当然の如く全員がそろうことは滅多にない。しかし,バンドを構成しているメンバーは若い。その若さが,ここぞというときには大きな力を発揮する。
 最初の大会である県大会は,本番直前の2・3回しか練習に参加できなかった。メンバーが全員そろったのも大会当日の朝,会場は幸田町民会館だった。
 愛知県内の殆どの一般バンドが勢揃いする注目の大会である。上位5・6チームは常連で,多くの情報交換をしているらしく,私の知らない春日井ウインドの内部事情まで知っているからスゴイ。
 歴史のあるG吹奏楽団や近くのR吹奏楽団など,多くの音楽愛好家で埋まった会場からは,熱気が伝わってくる。一方,我々は今朝全員がそろったばかりで,自分たちの演奏に対してどのような評価がいただけるのか,皆目見当もつかないの状態で,ゆとりなど,どこにもなかった。
 でも,これまでの活動を通して,音楽的に質の高いものを目指し,クラシックの大曲にも度々挑戦した。オーケストラを含め,幅広く勉強してきた。我々の音楽はきっと理解され,ある程度の評価はいただけるもの,と信じたかった。
 コンクール経験者は直前のチューニング室で巧みに全体をリードし,流石ともいえる効果的な時間を過ごしていた。とにかく全員がそろっているのだから,何時になくいい音がする。これまでのコンサートと同じで,当日になって初めてらしい音が出る。後は本番の自分たちの力を信じるだけ。
 そんな切羽詰まったぎこちないコンクールのスタートだった。これまでの定期演奏会がずっとそうであったように,コンクール県大会でも本番の演奏が一番良かった。
 当日になって初めて他の一般バンドを聞いたが,どこも手慣れていてなかなか上手い。各バンドに対して,自分なりの評価はできるのだが,自分たちとの演奏と比べて云々ということができない。
 5チームが東海大会に選出される。満足の演奏ができたので大丈夫だろうとは思ったが,発表を待っている間,随分手に汗をかいていた。
 とりあえず5チームの県代表に入っていた。良かった良かったとメンバーと共に胸をなで下ろした。しかし,ここからもう一つの戦いが始まっていた,私たちの知らぬ間に。これまでの常連チームに我々が割り込んだといういうことは・・・・,ということになるのだ。
 県大会は代表枠が6だから多くのバンドにとって代表になる可能性が高い。しかし,次の東海代表の枠はわずか1チームである。
 県大会後の練習では,とにかくウインドとして恥ずかしくない演奏を,我々の精一杯の演奏をしようと力を合わせた。しかし,東海の代表として全国大会を目指そうなんて,私を含め誰一人として真剣には考えていなかった。それが,伊那市の東海大会でその一つの枠に入ってしまったから大変である。まさか,の代表に我々は心から酔いしれた。
 ところが,その時から再び我々に大きな試練がやってきた。一の枠に,名もない初出場の我々が進出したのである。これまでの常連や,しのぎを削っていたチームも少なくないところに,である。
 我々の喜びとは別のところで波紋は広がっていった。惜しみない称賛と,何か言わなくては気の済まない輩の非難は,インターネット上でも大きな話題を提供した。その中心は春日井ウインドには高校生が入っている。いや,金を払って音大生を入れているバンドよりましだ,などと。
 音楽に携わっている者が音楽の話で盛り上がるのではなく,それ以前の話で足の引っ張り合いをしているのでは情けないと思うが,世の中には色々な考え方の人が多いらしい。 いずれにしても大いに注目を集め,バンド界を賑わしたことは紛れのない事実で,ある意味で大きな収穫を得ることとなった。
 これまでも多くの問題点を抱えながら,懸命に活動を続けてきた。たとえまぐれにせよ,コンクール初参加で全国大会にまで出場し,金賞までいただいた今,大きな節目にさしかかっているといえよう。さしずめ今回の第20回目のコンサートは,このオーケストラにとって新しい旅立ちでもあるのだ。
                                               桐田正章